人間とはなにか?
NEXT(赤の女王)
人間の本質!!
このサイト雑文で目指すものは"人間の本質"の追求です。
人間の本質!!、なんとも大仰な、”くさい”お題です。 しかしその大それたお題に、ともかく正面から迫ってみようと言うのがこの雑文です。
我々人間は他の動物と較べたとき、どこが同じで何が違うのか。 その違いは何に由来しているのか?
そして人間はどこに行くのか?
以上の線に沿って、このサイト全体の概要・流れを以下にまとめておきます。
具体的な内容については個々のページに踏み込んでご覧ください。
ヒト=生物学的連続と、人間としての飛躍
■ 最初に、否定できない二つの事実から
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サルたちとの生物学的共通性
生物学的に人間は、チンパンジー、ボノボなどと殆ど違いが有りません。最新のゲノム分析では、遺伝子DNA塩基配列の差は1.23%と出ています。人間は生物として、今でも単なる「裸のサル」に過ぎません。※ この1.23%と言う値がどれ程僅かな違いか?
同じ分析で、オランウータンとの差は2.8%、アカゲザル(ニホンザルも同じ)で6-7%です。残念ながらゴリラとの差を確認できなかったのですが、およそ2%位のものでしょう。
ここで注目すべきは、チンパンジー、ボノボから見た時、他のどの「サル」と比べても(ゴリラと比べてさえ)、人間の方がはるかに近い「親戚」だと言うことです。 -
人間だけの、隔絶した科学技術と思考、文明
今、あなたがパソコンやiPadを使い、インターネットを通してこの雑文を読んでいる。それで証明される高度な文明、それを作り上げた人間だけの思考と科学技術が、ここに存在します。
それに対し、チンパンジー、ボノボを含む全ての「サル」達は、サバンナや森の住人として、その自然に依存した生活を何百万・何千万年と、ほぼ変わることなく続けています。
この、本来なら橋渡し不可能な、人間だけに見られる進化人類学上の「古典的?矛盾」をめぐって、時に専門家でさえ説明不能に陥っている状態が見られます。或いは無理に説明しようとして、逆に論理矛盾や因果関係を取り違えた神秘主義に陥るケースが有ります。
道具と言葉
最初に結論を述べておきます。
今の人間を作ったのは「道具」と「言葉」です。
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道具は身体器官の延長・代用です。その意味で道具の発達は「生物進化」を代用します。しかし実際の身体器官と違い、道具の進化には遺伝子DNAの変異を必要としません。
ここに二つの矛盾を解くカギが有ります。 -
言葉は、人間に抽象的・一般的思考、それによる概念を与えました。
概念的思考抜きに、例えばアインシュタインの、あの、E=mc2 に到達することは絶対できませんでした。簡単な滑車でさえチンパンジーには作ることが出来ないし、出入りの為に扉を開けることはできても、その後、扉を閉めることはできません。
動物の思考は、仮にそれがどんなに複雑に見えても、あくまでも目の前の感覚依存の認識・思考です。
直接的感覚を超えた理性的認識・概念的思考は、言葉と密着した人間だけのものです。
道具と言葉は双方相まって、人間を作ってきたのです。
※ 近年、道具を使う幾つかの動物の例が観察されています。使うだけでなく「作る」例も確認済みです。
又、ニホンザルやプレーリードッグなどの観察から、動物の使う「ことば」についても研究されています。
これら、人間以外の道具、「ことば」について、人間のそれとの、質的な違いについても本文の中で触れておきます。
直立二足歩行
■ 全ては直立二足歩行から
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道具と言葉を可能にした生物学的要因は、直立二足歩行です。
直立二足歩行により、歩行から解放された前肢が道具の作製・使用の、文字通り担い手となることが出来たし、直立による重力の影響で喉頭が下がって口腔内が広がり、区切りを持った人間の音声言語を可能にしたとされています。 -
道具と言葉を必要とした要因は、群れによる集団的労働(狩りや捕食者から身を守る)です。
コミュニケーションの必要のない時、ことばは生まれないし、個体ベースの生活の中で道具も発達しないでしょう。
かって、サルからヒトへの最初の契機を、脳容量の増大だったとする議論が主流の時代が続きました。そう云う潮流を背景に起こったのが、20世紀最大の科学的スキャンダルとされた「ピルトダウン人」事件だったのですが、その後の人類化石の相次ぐ発見などで、脳増大など、他の全ての人間的指標の前に、先ず直立二足歩行が獲得され、他の「人間らしさ」は全て、その後に起こったことが証明されました。
※ エンゲルスの炯眼
ピルトダウン人事件は、20世紀の初頭に勃発し、捏造が立証されるまで約40年間を要したのですが、そのはるか前、1876年6月、既にエンゲルスは「猿が人間になるについての労働の役割」の中で、人間化の要因が道具であること、その必要性が集団労働であること、それを可能にしたのが直立二足歩行であることなどを、言葉や肉食などと並んで述べています。「脳増大起源説」を前提にしたピルトダウン事件が勃発するのが、この四半世紀後のことです。
この著作の中でエンゲルスは、ダーウィンの「種の起源」にも触れていますが、種の起源が出版されたのが、1859年11月ですから、その、6、7年後に発行されたエンゲルスのこの著作は、当時としては非常に透徹した洞察であったと言えるでしょう。
■ 直立二足歩行の契機
「ヒト」定義の第一要素
ピルトダウン人事件などを経て今、「ヒト」定義第一の要素は「直立二足歩行」とされています。ホミノイド(ヒト上科=ヒトの仲間と大型類人猿を括るサル目の分類群)と思しき化石が発見された時、その化石に直立二足歩行の痕跡が認められれば、他の形跡を差し置いてその化石は「ヒト」に分類されます。文字通りヒトは、二本の足で歩き始めることで、自らを人間にしたのです。
※ 歯も、その残りやすさと相まって重要な指標とされています。しかしやはり、直立二足歩行と同列には論じられません。
歯だけの場合、「デンタルホミニドに過ぎない」などと言われることが有ります。
本来なら有り得ない、直立二足歩行
今われわれは二本足で立って歩くことを、至って普通のこととしていますが、実はこの直立二足歩行と言う移動方式は極めて特殊なのです。実際地球上の全ての動物の中で直立二足歩行を恒常的な移動方法としている種は、人間だけです。
解剖学的に見てもこの直立二足歩行は、本来あり得ない、とんでもない設計ミスだと言われています。腰痛やヘルニア、痔、静脈瘤、メスの難産(下記参照)など、我々を悩ましている多くの不具合は、直接的・間接的に直立二足歩行にその原因を持っています。つまり人間はいまだにそのつけを払い続けている訳です。
この不具合は、四足から二足歩行に移行した初期の時期ほど大きかった筈で、そのつけを払ってまで直立二足歩行へ移行した理由について、今までに色々な説が立てられてきました。その代表が「サバンナ説=イーストサイド・ストーリー」です。
「サバンナ説」の破綻
従来主流とされてきた「サバンナ説」、それを洗練した「イーストサイド・ストーリー」は、近年相次ぐ初期人骨化石の発見により、今、完全に破綻しました。アフリカにサバンナが出現するはるか以前の時代の人骨化石が、それも「イーストサイド」から遠く離れた地からも発掘されてきたからです。「イーストサイド・ストーリー」提唱者の、イヴ・コバン自身が既に自説を撤回しています。
それに伴い、サバンナ進出を前提とした全ての説の破綻も、又確定したと言えます。
「アクア説」の検証
初期人骨化石の相次ぐ発見、より洗練されてきた分子進化学、この両面からの知見によって、ヒトはチンパンジーなどとの共通祖先から分岐して殆ど間をおかずに直立二足歩行を獲得したらしいことが明らかになっています。解剖学的には「とんでもない設計ミス」で本来有り得ない筈の直立二足歩行への移行が、極めて短期間に行われたとすれば、そこにはその為の特別な説明が必要になってきます。つまり、ヒトに移行した部分だけが遭遇したであろう死活的な淘汰圧を想定しなければ、直立二足歩行等と言う移動方法を説明することはできません。
共通祖先の一部が、何らかの事情で水辺での生活を余儀なくされた時期が有り、それが直立二足歩行の獲得と、ヒトへの移行の契機だとする、一見荒唐無稽とも思われる「アクア説」が、一部で根強い支持を保っています。
「イーストサイド・ストーリー」が破綻した今、直立二足歩行の契機を正面から取り上げている説は、今のところアクア説だけです。内容についての様々な批判は有っていいと思いますが、その場合アクア説に代わる、説得力ある「直立二足歩行獲得説」を提起する必要が有ると思っています。
ここでも「アクア説」について若干立ち入って見たいと思います。
群れから社会へ、そして人間の本質
■ 直立二足歩行による、メスの難産と、人間の配偶関係
上記したように、直立二足歩行に伴うつけの一つが、ヒトのメスの難産ですが、この為ヒトは、メスだけの子育てが困難になり、哺乳類の中でも珍しい、オスの子育て関与を発達させました。
これにより、現代にも続く、一夫一妻制の配偶関係が(様々なバリエーションを伴いながら)基本的に確立され、そこにペアボンドとしての人間だけの「愛の感情」も発達しました。
一番近縁な、チンパンジーやボノボのように「乱婚」、次に近縁なゴリラに見られる「ハーレム(一雄多雌)」、どちらの配偶関係を採っていたとしても、今の複雑で階層性を持った人間社会は構築されなかったでしょう。
■ 社会的存在=人間の本質
チンパンジーなどとの共通祖先から分岐した時点で、ヒトは群れで生活していたでしょう。チンパンジーやボノボがそうであるように、共通祖先も間違いなく群居生活だっただろうし、ヨチヨチ歩きの初期人類が生き残るには群れで共同して捕食者や環境に対処する以外、道がなかった筈です。
何事によらず、ゼロからの出発は難しいのですが、人間の社会も、その形成の出発点は、このあり合わせの生物学的群れを土台に始まった筈です。
しかし現在の人間社会は、チンパンジーやボノボ、ゴリラ、ニホンザル、或いはミツバチやアリの群れとは質的に異なるものになっています。
38度線と言う、自然的な必然性の全くない直線を境に朝鮮半島では、北と南で同じ種である人間が、いや種どころか同じ民族、時に肉親が、全く違う社会体制下で暮らしているし、1968年(明治元年)と言う、これ又自然的には全く必然性の無い時期を境に、封建的幕藩体制から資本主義体制へと、大きく様変わりすると云う例を見ても、社会がヒトと言う生物学的存在と直結したものでないことは明らかです。
しかし人間はこの社会的なネットワークを離れて、生物学的ヒトとしても生きてゆけません。
社会からの一切の繋がりを絶たれた時(これを実験で確かめることはできません)、道具の使用はおろか、言葉、それにヒトとしての一番基礎的な特質、直立二足歩行さえ獲得できません。
一番基礎的な社会単位である家庭から疎外されたネグレストが、往々にして身体的な成長さえ阻害されている例は、このことを実証するものです。
人間が成長すると云うことは、単なるハードとしての身体が出来あがってゆくことだけを意味しません。社会のネットワークを、自分の内面(具体的に言えば脳)に反映・組み込むことです。その意味で社会は、単に人間の外的な環境で有るに留まらず、(ネットワーク化されるべき)内面でもあります。
人間はヒトとして、生物学的な存在です。同時に「人間は社会的な存在」です。ここに、道具や言葉や一切合財の要因をひっくるめた「人間の本質」が有ります。
■ 社会の発展=人間の歴史
1万年程前に人類は農耕と牧畜を覚え、それと前後して定住生活に移行しました(定住が先行した、との研究結果も有る)。
農耕と牧畜は、それまで運頼みだった狩猟生活の不安定な生産から、或る程度安定した「当てになる」生産を実現しました。
同時に農耕と牧畜は、穀物と家畜と言う形で、貯蔵可能な生産物を人間に与え、生産力の発展と合わせ、「余剰生産物」を後に残すことを可能としました。
余剰生産物は、それを独り占めする可能性を或る種の人間に与え、実際そこに、奴隷と奴隷主と言う階級分化が、人間の歴史上初めて生じました。同時にこれは「女性の世界史的敗北(エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』)」に繋がるのですが。
農耕の発明から僅か五千年程で、ピラミッドや大神殿を築くほどの、膨大な本源的蓄積と、片方に多くの奴隷が、地球上での先進地域であるエジプトで誕生した訳です。この時期の他の文明もほぼ同じような事情を経てのことです。
その辺は、史的唯物論に属する問題ですが、ここでも少し触れてみることにします。