>運動とはふつう力学上の概念であること
最初に「運動」から
例えば広辞苑にも次の記述があります(第三版より)。
- 物体が時間の経過につれてその空間的位置を変えること。
- (哲)1の他広く化学変化・社会発展などをも含めて、物質の存在と不可分に結びついた変化一般を言う。(後略)
mhさんの言われる「力学上の概念」は上記1であり、私は2の意味合いで捉えた訳です。
でも、どうなんでしょうね。
「力学上の概念」に限定すると、極めて限られた意味合いしか持ちません。下の「機械論」でも述べたとおり、力学的な運動は二つ、或いはそれ以上の相対的な位置関係以上の意味を持ちません。広辞苑の記述どおりです。
例えば、リンゴが落ちる・落ちないと言っても、あくまでもそれは地球に対しての、或いはリンゴの木に対しての相対的な意味合いしか持ちません。
地球は自転しているし、太陽に対して公転しているし………、と言った具合です。日常的な会話の範囲でなく、ある程度科学的な場で「物質の運動」を論じる時、1の解釈でどれ程の意味が有るのか?、と言うのが私の率直な感想です。
勿論mhさんの解釈で「間違い」だと言うことでは有りませんが、普通一般科学書でも「物質の運動」と言った場合、何も断りがなければ 2 の意味で、特に力学的な概念としての運動に限定した場合、その旨断り書きを入れるのが普通のような気がしますが………。
2で言えば、基本的には4つの力(今その統合が物理学の最大の課題のようですが)に基づく、全ての変化を指すし、当然、社会運動、生物の進化、化学反応、放射性元素の崩壊や、物質とエネルギーの相互変換など、全てを含みます。勿論力学上の位置変化も含みます。
そう言う意味合いでの「運動」でした。
>それ以前の問題として、社会ダーウィニズムは社会思想であって科学的理論ではありません。
「運動」を、上記2 のように捉えたとき、社会思想と科学的理論を原則的に分けて考える必要は無い、と言うのが私の見解です。社会思想も社会科学として立派な科学だと思うからです(立派で有るべきです。その点で社会ダーウィニズムは落第です)。
私は唯物論者ですが、唯物論者にとって人間の頭の中で紡ぎだされる「思想」が、外界の客観世界と無関係で成り立つことは有り得ない、と思うからです。
>古典力学と電磁気学は独立のものでどちらが低次とか高次とかいうものではないこと、等々)
私も「機械論」で、低次、高次と言う言い回しをしましたが、勿論これは「低級」とか「高級」とかと言う意味合いでは有りません。どちらが基礎的か、と言うことです。
その点でやはりステージと言うか、そう言うものは有ると思いますよ。ノーベル物理学賞は化学賞に劣る、と言うつもりはサラサラ有りません。
例えば化学反応のメカニズムの説明を、化学でするのは難しい。まして生物学で出来る訳が有りません。やはり原子の構造、特に電子の振る舞いにまで掘り下げる必要が有ります。
原始生命誕生のメカニズムを「突然変異」「自然淘汰」で説明することは出来ず、やはり分子化学が必要になってくるでしょう。
「社会ダーウィニズム」への批判は、社会科学と共に生物学についての正しい理解抜きには出来ないことです。
その逆は有り得ません。
或いは現実の問題として、生物が誕生する為には原始海洋での化学進化が必要だったし、その材料としての元素は、星の中で鉄まで、そして超新星爆発での重元素合成・拡散と言う物理的経過が必要だった訳で、その逆もまた有り得ません。
違い(mh さんの言う、独立)を認めつつ、しかしまた古典力学と電磁気学、生物学など、全てが連関しているし、相互浸透していると言うのが私の見解でも有ます。原始生命誕生のメカニズムが、生物学の範疇か化学の範疇か、と明確に線引きできないように。
その際、「高次」の運動は「低次」の運動を前提としているのであって、その逆は無い。
高次の運動形体にはそれより低い運動形体をすべて含むけれども、その逆は無い、と言うことでした。
ただ「機械論」は、主に18世紀の話から始まったので、量子論やら相対論は触れませんでした。話もややこしくなりますので。
マクスウェルの方程式も19世紀(1864年)ですしね。

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