ヒトから人間へ
初めに-このサイトで目指すもの
人間の本質!!
このサイト雑文で目指すものは"人間の本質"の追求です。
人間の本質!!、なんとも大仰な、”くさい”お題です。 しかしその大それたお題に、ともかく正面から迫ってみようと言うのがこの雑文です。
我々人間は他の動物と較べたとき、どこが同じで何が違うのか。 そしてその違いは何に由来しているのか。
■ 人間の本質?
人間の本質と言う点で、最初にこの雑文を通して私が述べたいことを、次の2点に集約しておきます。
- 人間を、他の動物と切り離して、何か特別で神聖な存在だとする、例えば旧約聖書の「創造論」等の立場を退け、人間もまた、ヒトとして動物の一種であり、他の全ての生物の進化の延長として考える。つまり他の生物全般との「連続性」を承認する。
-
同時に、人間を単に生物学的な存在としてだけで見るのでなく、他の動物に無い人間だけに特有な、社会的存在として理解し、そこに人間だけの「飛躍」を認める。
人間の社会に、生物学的な法則を安易に持ち込んで機械的に解釈しようとする、所謂「社会ダーウィニズム」等の俗論を批判する。
■ 連続性―創造論的見解へのアンチテーゼ
旧約聖書の創世記によると、神は5日目に地上の生き物と人間を創った後、次のように言ったことになっています。
"神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」"
アメリカ南部を中心に、或いはバチカンの拠点でもあるイタリア等で、創世記を含め、聖書の教えを字義通りに信じそれを生活の信条にしている、或いはしようとしている人は大勢います。つまり今でも大きな影響力を持っています。
創造論(創世記)と同じ立場でのバリエーションとして、「インテリジェントデザイン論」、ヘーゲルの「絶対理念」などが有ります。哲学的には客観的観念論と呼ばれる立場です。
ヘーゲルは偉大です。彼の体系は観念論的に逆立ちしていましたが、その弁証法的内容は、フォイエルバッハによる唯物論的批判を経て、マルクス、エンゲルスによって弁証法的唯物論として大成しました。
それに対し、創造論は2000年以上に渡り多くの人に影響力を及ぼして来ましたが、そこに新しいものは何も生み出しませんでした。
この観念論的・創造論的立場に対しては、「直立二足歩行」「最古のヒトを探して」などで、化石や分子生物学の成果など、実証的・唯物論的知見を提示し、そのアンチテーゼとする積もりです。
しかし創造論は信仰です。仮に幾ら実証的な知見を対置したからと言って、それで創造論者と噛み合った議論が成り立つとは思えません。ましてや1サイト上での理論展開で、信仰を覆すことなど望むべくも有りません。
創造論的観念論者に対しては、「お達者でー!」と言う以外に無く、ここではそれ以上に踏み込む積もりは有りません。勿論そう言う創造論的立場を、公教育などに持ち込もうとするような「実害」が生じる時は、毅然と対処すべきは言うまでも有りません。
■ 飛躍―「人間の特殊性」への吟味
問題は、2番目です。つまり「科学の側」への必要な批判です。
「人間の特殊性」に言及するとき、進化生物学の側から、往々にして次のような反応が返って来ることがあります。
"進化に意図された目的は無い。生物はその時その時の環境に適応するという形で進化して来たのであって、人間と言えど最初から究極の存在として目指されて、今に至っている訳ではない。
その意味で、今生きている全ての生物はそれぞれに進化の最先端にいるのであって、人間だけが特別ではない。
全ての生物がそれぞれに特殊なのであり、それを超えて、人間だけが特殊である訳ではない。"
これはその限りで確かにその通りでしょう。生物進化に究極の目的というものは無く、人間だけを他の生物の頂点とすべきでないことは確かです。 人間はヒトとして生物の一種であり、当然生物として、動物としての属性と制約の中で生きています。これは改めて言うまでも無いことです。
問題は、人間を見るときその枠内だけで解釈していいかどうか?と言うことです。
私は人間に、「社会的な存在」としての、他の動物に無い特殊性を認めます。この辺は、「道具と人間」「言葉と人間」「社会と人間」などで詳細に論じてゆく積もりです。
■ 生物の進化と形質・行動様式、そして人間
本来動物(生物一般も含め)は形質上の変化、つまり種分化を通して新しい環境に適応して来ました。ある種の恐竜が、前肢を羽根に変化させることにより、分化して鳥類となり、空を飛べるようになった、等はその一例です。
そしてその形質変化の拠りどころは、遺伝子・DNA塩基配列の変異とそれに基づくタンパク質合成の違い、と理解され、この遺伝子的変異の度合いと、外見上の違い、つまり表現型は、全体的には概ね正の相関関係を示してきました。
同時にそのことによって、同じ種に属する個体は、仮に地域や集団が違っても、その行動様式には種としての共通性が見られます。身体の造りによって行動様式も制約を受ける訳で、そこに共通性を示すのは、言わば当然のこととして承認されていた訳です。
つまり或る地域、或る集団で採取された個体サンプルの観察結果は、その種全体をほぼ代表するものと考えて大きな問題は無かったのです。
細かいことを抜きに大雑把に言えば、「動物の形質と行動は遺伝子DNAの塩基配列によってコードされている」、と言って差し支えなかった訳です。
………少なくとも、人類の出現までは。
■ チンプとヒト、遺伝子の違い 1.6%
人類はおよそ600?700万年程前に、チンパンジーやボノボ(※ 注1)との共通祖先から枝分かれしたもののようです。それ以前は、ヒトもチンプも同じ動物だった訳です。(※ 注2)
数百万年と言う年代は、生物進化のタイムテーブルからすれば多分、ホンの僅かな時間なんでしょう。それもあって、ヒトとチンプの遺伝子的な違いは1.6%(16% じゃ無いですよ)しか無いそうです。1.2% と言う研究結果も有ります(※ 注3)。
つまり生物学的には、ヒト(※ 注4)とチンプは今でも殆ど同じ動物と言って差し支えない状況です。
しかし、改めて言うまでも無く現在の人間とチンプは、外見上(※ 注5)も、そして何より行動様式も大きく異なります。
又、人間と言う種だけを見ても、肌の色や身長等の形質、取り分け行動様式は千差万別です。エチオピア人を以て人類を代表することは出来ないし、イギリス人を以て代表することも出来ません。又同じイギリス人でも個体(個人)によって行動様式は様々です。
しかし地球上の全ての人間は、ホモ・サピエンス・サピエンスとして、単一種なのです。
チンプやボノボと人間の、この形質的・行動様式的な違いを、1.6% の遺伝子的差異で説明することは困難です。同時に、同じヒトと言う種で有りながらこれだけバラエティ豊かな違いを、生物学の枠内で説明することも、なかなか難しいでしょう。
上記した「遺伝子的差異と形質・行動の相関関係」は、少なくとも人間に関しては成り立たない、と言えます。
※ 注1、ボノボ
かってピグミーチンパンジーと呼ばれ、やや小型のチンパンジーとされていたが、今は違う種として扱われ名称もボノボと呼ばれる。チンパンジーと同じパン族。ヒトと分岐して後、チンパンジーと分岐した。
アフリカ中央部、コンゴの一部にのみ生存し、旺盛で多彩な性行動などで知られる。知能はチンパンジーに勝ると見られる。
スー・サベージ・ランボー博士による、「天才ボノボ」カンジ、パンバニーシャなどの言語訓練研究が有名。
※注2、 チンプ、ボノボとヒトが、共通の祖先種から分岐した年代は、分子生物学の知見を最初に人間に適用した、ヴィンセント・サリッチとアラン・ウィルソンの研究によって、最初480万年前、或いは500万年前が定説とされて来ました。
その後、チャールズ・シブリー、及びジョン・アールクヴィストによる、DNA交雑法を使っての別個の測定、及び分子生物学の更なる発展等により,タンパク 質やゲノム分析の技術が向上し,分子時計による人類進化の道筋の推定がより正確なものとなって、今では100万年ほど遡った、およそ600万年前と主張さ れるようになっているようです。
しかし最近、古い地層からの猿人化石の発掘が相次ぎ、この分岐年代さえも見直しが余儀なくされているようです。
特に、2000年発見のオロリン・ツゲネンシス(600万年前)、2001年に発見された、サヘラントロプス・チャデンシス(愛称トゥーマイ、 600?700万年前)の意義は大きく、今では更に100万年も遡った700万年前辺りを分岐年代として視野に入れる必要にせまられているようです。
しかもオロリンにしてもトゥーマイにしても、発見された化石には直立二足歩行を推測させる痕跡が見られる訳で、ヒトはチンプなどと分岐して殆ど間を置かずにこの、直立二足歩行を獲得したことになります。
この、600万年とか700万年とかの古さが逆に、オロリンやトゥーマイの化石を、ヒトに分類すべきか否かについて、一部論争になっている模様です。
私としてはトゥーマイ頭蓋骨化石にハッキリ認められる、直立二足歩行の特徴(大喉頭口の位置と角度から推測できる)からしても、これをヒトとして認めるに 些かの疑問も無いのですが、この決着は新たな化石の発見や専門の研究成果に委ねるとして、いずれにしても700万年前程以前には、ヒトとチンプやボノボが 同じ動物であったことは間違いないところです。
そして1000万年余り遡った過去には、ゴリラとも又祖先を同じくしていたのでしょう。
※ 注3
遺伝的差異は研究手法によって若干の差が出てきます。又、比較する分子によっても結果は違います。
ですから本来、カンマ以下のパーセントなど意味が無いと言えるかも知れません。「殆ど同じ」「大部分」と同義と言えるでしょう。 しかし「科学的」装いの為には数値で細かく表現することも又、意味を持ってくるのかも知れません。
同時に次のような事情も留意しておいた方が良いでしょう。
ヒトとチンプの遺伝的多様性の検証に、最初に分子を持ち込んだのは、バークレー校のアラン・ウィルソンとヴィンセント・サリッチだが、当時、つまり1960年代半ばには未だDNA分子の直接分析は出来なかったので、彼らはDNAの代わりにタンパク質分子を利用した。
タンパク質はDNAの塩基配列によってコードされているアミノ酸が繋がったものだから、タンパク質の比較はそのままDNAの比較に繋がる。
しかしこの分析手法で問題にされるのは、タンパク質合成に関与しているDNAだけだと言うことである。
人間(チンプやゴリラも)のDNAにはタンパク質合成に関わる、エクソンと呼ばれる領域のほか、タンパク質合成に関わらない、今のところ何の働きもしない とされ「ジャンクDNA」とも呼ばれる、イントロンと言う領域が、エクソンの何倍も有ることが分かっている(最近の研究で、このイントロンにも何らかの存 在意義が有るのではないかとされている)。
そしてこのイントロン領域は、生存に有利にも不利にも働かない為、突然変異が淘汰に掛からずそのまま定着する率が高い。つまりは変異スピードが極めて速い。 タンパク質の比較だけでは、このイントロン部分の変異が考慮されないことになる。
イントロンを含めたDNA全体の変異は、従ってもっと多くカウントされることになる筈だ、と言う訳だ。それがどの程度の意味を持つか、私には分からないが。
もう一つ、
DNA分子の比較と言う点で、任意の二つの種、例えば人間とナメクジ、或いは人間と大腸菌で対応するDNAの塩基配列を比べたとき、どんなにかけ離れてもその差異が75%以上になることは無いと言うことである。
例えば、ヒトと大腸菌のシトクロムc(チトクロームc)に関わるDNAを比較したとき、最低でも25%以上の共通点を持っていると言うことだ。それは同じ共通の祖先に由来する、全ての生物の土台と言うことだろう。
だからと言って、人間が25%大腸菌的だということではないし、25%ナメクジの性質を持っていると言うことではない。
ヒトとチンプ、或いはゴリラの遺伝子的差異を考える際にも、その辺の「共通の土台」を留意しつつ数字を見てゆくことも必要だろう。
しかし、いずれにしても「殆ど」「大部分」は共通なのだ。
例 えば上記で、行動様式の違いとともに人間とチンパンジーなど類人猿との、外観上の違いを強調しました。しかしその違いは若しかしたら体毛の有無が大きく 影響しているのかも知れません。人間に他のサルたちと同じく、ふさふさした体毛を付けて森の中に置いたら、或いは見た目、チンパンジーとそれ程変わらない のかもしれません。遺伝子塩基配列98%以上の共通性も納得できる所です。
ヒトが体毛を失った要因の説明として「アクア説」が有ります。これは後ほど触れます。
※注4、人間とヒト
ここでは頻繁に「ヒト」と言う表現が出てきます。最初にそのことについて。
ヒトとは、 狭義にはホモ・サピエンス、つまり現世人類の日本語学名。より広く言えば、猿人、原人、旧人、新人とたどって来た、つまりは明らかに人類的特長を持つ、個 体とグループを表現する日本語学名とされます。 (homo 英 man 仏 homme 独 Mensch)
人間を動物学的に分類した時の呼称と言って良いでしょう。「人類」とほぼ同義。 ヒトを他の類人猿と区別する身体的特徴は、「直立二足歩行」です。
しかし動物としてのヒトと、文化を持ったヒト(人間)を切り離して、ヒトを理解することは不可能であり、たとえば 「人類学」はヒトの体と文化(生活状態)とを総合的に研究し、その関連を知ることを目的とします。 (岩波 生物学辞典より)
■ 遺伝的差異と形質の逆転
チ ンプとボノボ、そして人間との関係を見てきましたが、この三種グループの共通祖先と、次に近縁なのがゴリラ(ほぼ1000万年前ほどに分岐)、その次がオ ランウータン(同、1400万年前)です。以下、様々なサル達と、年代を遡るたびに、より幹に近い共通の祖先と枝分かれしたことが分かっています。
こ こで言えることは、チンパンジーやボノボから見て、種として一番近い親戚は、ゴリラやニホンザル等、他のどの「サル」でもなく、人間だと言うことです。つ まり、チンパンジーにとってゴリラやニホンザルよりも、人間の方が遥かに「血が濃い」訳なんですね。当然遺伝子的差異もその通りになっています。 「霊長 類の系統樹」参照。
本来ならばそれを反映して、人間とチンパンジーが、外見も行動も一番似通っており、少し離れてゴリラ、更に大きく離れてオランウータン、サル達となるべき ですが、実際は人間だけが際立って特殊であり、他の霊長類は、まあ外見的には若干の違いは有るものの、何れも森や林の住人として多くの共通性を色濃く残し ています。チンプも又その一員として、本来最も近縁である筈の人間とは隔絶して見えます。
つまり A と言う共通の祖先から A1、A2、A3 と言う順序で、種が分岐したことが分かっていたとして、A1とA3は比較的似ているのに、A2だけがとんでもなく違っていると言うことは、普通は有り得な い。この有り得ないことが人間とチンプ、ゴリラ、そして他の全てのサル達の間で起こっている事態です。
この、人間と他の霊長類との、分岐=血縁距離と形質・行動様式の乖離の、言わば逆転現象を、生物一般に見られる遺伝子的差異、つまり「生物学の枠内」で説明することには無理が有ります。
若し出来る、と仰るなら伺いたいものです。
■ 進化生物学者の戸惑い
この「出来ない相談」を、あくまで生物学の枠内で説明しようとして、進化生物学の専門家がなかなか苦労している様子が、私のようなシロートからしても、書籍やWebサイトで散見できます。
上で述べたことの繰り返しになりますが、1?2% と言う遺伝距離からすると、チンプもゴリラも、ヒトのグループに入れるべきだ、と言う見解が、当然片方に有る訳です。
ヒトの指標として「直立二足歩行」「道具の使用・作成」「コトバの使用」などが挙げられますが(このこと自体は私も全面的に賛同です)、チンプもゴリラも二足歩行が頻繁に見られるし、最近の観察結果から、道具の使用や一部作成まで確認されている。
コトバにしても人間の専売特許と言う訳には行かず、類人猿は勿論、クジラやイルカも何種類かの鳴き声でコミュニケーションをとっていることが確認されている。
生物学的見地から見たとき、一体、人間をどこで他の類人猿と区別すればいいんだ?、って訳です。
しかし片方、子供の目から見てさえも、人間と他の類人猿との違いは一目瞭然な訳で、森の中のサル達と、ニューヨークや丸の内の高層ビル街で働いているビジネスマンやOLを較べて、「殆ど同じ」だと素直に感じられる人は少ないでしょう。
全く先入観を持たない宇宙人が飛来して地球を見たとき、先ず目に付くのは人間であって、それと他の類人猿との共通性を感じるのは難しいことでしょう。
じゃ、その違いはどこから来るのか、ってのが又片方に有る訳です。
進化生物学専門家の著作や、討論などを読んでいると、往々にしてこの堂々巡りに陥っているケースを見受けます。
この矛盾を「解消」すべく、例えば次のような主張がなされます。
アドルフ・ポルトマン(1897-1982)と言うスイスの動物学者が、「人間の属性」として三つ挙げています。
- 直立二足歩行
-
道具・言語の使用
(※ 管理人注 ここまでは良いでしょう。次に………、) - 洞察力、つまり未来予測性が有るかどうか、
……だと言うんですね。そしてこのボルトマンの主張を紹介していた日本の学者も、三番目の「洞察力」が非常に重要だと述べています。
しかしこれはチョッと考えれば直ぐ分かることですが、完全なトートロジーです。
「洞察力」は確かに人間と他のサル達を区別する重要な属性では有るにしても、それは人間化の結果です。元々ヒトと、チンプやゴリラは過去において同じ動物だったのであり、その時そこに「洞察力」についての違いなど、何も無かったのです。
重要なことはかって同じ動物だったチンプやゴリラとヒトで、どうしてヒトだけが洞察力を身に付けることが出来たか?であって、その原因に結果を織り込んではいけません。
こう言う論法で言えば、つまり進化の結果として達成された属性を、ヒトの起源に持ち込む見解は、冒頭に述べた旧約聖書の「アダムとイブの誕生」、つまり創造論に繋がります。最初から出来上がった形として人間を考える訳ですから。
「生物学的」枠内に囚われてしまうと、逆に人間を神聖化したものに押し上げてしまう危険が有る、その一例です。
言う方も言う方ですが、それを持ち上げる方も持ち上げる方だと思わざるを得ません。
(勿論こんな「専門バカ」ばかりでなく、適切な見解を示してくれる専門家の方が大半なのだろう、と言うことは付け加えておきます。既出の長谷川真理子さんなどはそのお一人です。
或いはボルトマン氏にしても、業績一般についてはおそらく大なるものが有る、とは思うのですが )。
■ ヒトの歴史そのものに沿って考える
何故こんな、シロートでもオカシイと直ぐ分かるような落とし穴に陥るのでしょうか。
一つには繰り返し述べているように、人間の進化を「生物学の枠内」だけでは説明できないことの、専門家からの白状でも有ると、私は思っています。
もう一つ重要なこととして、ヒトが他のサル達と分岐して数百万年経過した、今の高みに立ってヒトやサル達を見ているのではないか、と言うことです。
分岐して数百万年、独自に進化してきた現在の人間と、チンプやゴリラを比較したとき、「洞察力」に限らず、我われは着目するあらゆる項目について、その明らかな差異を言い立てることが出来ます。
- 曰く、人間だけが衣服を着用する。
- 曰く、人間だけが精神性を持つ、或いは宗教を持つ。
- 曰く、人間だけがパソコンを使う。……その他色々。
- 或いは人間だけが笑いを知っている。等など、etc、エトセトラ………、
現にそう言う違いに基づいて「衣装哲学」「宗教哲学」などの切り口から人間を理解しようと言う「学問」も有りました。 しかしそもそもこれらの違いは、今だからこそ言えることです。
繰り返し述べているように、人間とチンパンジーやゴリラは元々、同じ祖先から枝分かれしたのであって、かっては全く同じ動物だったのであり、その時そこに、どんな項目であれ両者の違いは全く無かった筈です。
元々同じ動物種から出発し、分かれた今でも生物学的には殆ど同じと言ってもいいチンプと人間が、その歩みの中で、何が起こって何が違ったから現在のここまでの巨大な差が生じたのか?
何かが起こったことは間違いない訳で、その「何か」を考えて行くことで、逆に現在の人間の有り様、本質が見えてくるのではないか。そう言う問題意識を持ってのテーマです。
■ 群れから社会へ-連続と飛躍
結論から言うと、ヒトを人間とした要因は「道具」と「言葉」です。
そしてそれを必要としたのは、群れによる共同作業、つまりは「社会的な労働」であり、道具と言葉を可能にした基礎的な要因は「直立2足歩行」です。
■ 直立二足歩行
ヒトと他の類人猿を分ける最も基礎的な指標は「直立二足歩行」です。発見されたホミニド化石に、直立二足歩行の兆候が見られれば、その化石種はヒトに分類されます。
直立二足歩行によって前肢が「手として」解放されたからこそ、道具の使用や製作が可能だったし、発声に必要な生理的形質も整いました。
発見されている化石や分子生物学の知見を追いながら、ヒトの進化を跡付け、直立二足歩行に至った契機としての、「サバンナ説」及びその洗練された形での 「イーストサイド・ストーリー」、そしてこれらの説の批判的検討のうえに展開されている「アクア説」について触れてみます。
■ 道具
道 具は身体器官の延長であり、その点で「形質上の変化 = 進化」を代用するものです。しかし実際の生物的進化が、突然変異による遺伝子DNAの変異と自然選択という、地質学的時間を要するのと違って、同じ身体器 官の延長・代用であっても、道具の発達・進化は遺伝子DNAの変異に依存しません。人間の知能の発達・社会全体の知識の集積に応じ、急速に無限に発達させ ることが出来ます。
そのことが、1.6% に過ぎないヒトとチンプの「生物学的」違いを乗り越える鍵です。
恐竜から鳥への移行にどれ程の長い年月を要したか、私は承知していませんが、ライト兄弟の初飛行から僅か100年で人間は月に人を送るまでに、その「翼」を進化させています。
道具は人間が作ったものですが、道具がヒトを人間に作り変えた、とも言えます。
■ 言葉
言葉はヒトに抽象的思考、概念的思考を与えました。 言葉無しに人間の文化は無かったでしょう。
人間の言葉の持つ抽象化機能、思考と一体化した言葉の機能を、他の動物の「コトバ」と比較しながら考えて行きます。
■ 社会
ヒトはチンプやボノボと同じく、分岐した時点で群れをなしていたのでしょう。その時点でヒトの群れも「生物としての適応」以上のものでは無かった筈です。
人間の社会は動物の群れとどこが違うのか、社会的な存在としての人間の特殊性とは何か、人間の本質とも言える「社会」について考えて行きます。
この趣旨のもと、次のページから各項目に立ち入ってより詳細に見てゆきたいと思います。
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